ご飯と鑑賞の記録

映画鑑賞、読書、その他感想文

人体という宇宙:感想『光の旅人 K-PAX』

『光の旅人 K-PAX』

アメリカ 2001

 

地球に来た宇宙人が主人公のSF。だが、それだけではない。そこが面白い作品だった。

 

精神疾患を扱うフィクションは、2000年代なら特にステレオタイプに描かれがちだと感じる。そもそも、精神疾患や障害の分類が当時と今とでは異なり、誤った認識もされていた。

この作品はSFでありながら、同時にPTSDの症状を描く。

そのため、そういう流れか、と分かってからは身構えていたが、見た印象としては誠実に描いていたのではないかと思う。

アメリカは戦争などでPTSDの患者も多いと思われる。私は誠実だと感じたが、当事者はこの作品をどう見るのだろうか。

こんなにファンタジックな描き方をするのは良くないのかもしれない、とも思う。

 

私がこの作品で、良いな、と思ったのは、現実には説明のつかないSFであることと、一人の人間の心と身体に起こったことが、同時に事実として描かれる物語の構造だ。

主人公は確かに別の世界から来た異星人であり、そして同時に、心に傷を負った一人の人間でもあった。

 

高校生くらいの頃、人体とは小さな宇宙で、どんどんミクロに見ていくと、そこにも無数の宇宙があるのではないかと想像したことがある。

同時に、自分のいる世界もまた、誰かの身体の中であったり、何かもっと別の有機体や現象のようなものを作っているのではないか、それが無限に巡っているのではないか、とも考えていた。

胡蝶の夢」のように、今の自分の存在が、何か別の存在の中にあったり、逆に自分が考えていることが、自分の中にいる別の存在に影響を及ぼすことだってあるかもしれない、と考えて、しっかりしなくちゃ、と思った。

 

数年前、金子みすゞの詩『蜂と神様』がEテレにほんごであそぼ」で流れていたのを偶然聞いた。素晴らしい詩で、私は泣いてしまった。

ここまで「宇宙」や「存在」というものを、壮大に、かつ身近に、そして何より優しい眼差しで表現した作品に、不意に出会って、涙が止まらなかった。

 

そして、やはり高校生の自分が何となく膨らませていた想像を、私は今も、そうかもしれないな、と思っている。

今私が希望を持ち続けたり、健康を維持することは、もしかしたら、どこかの誰かの役に立っているのかもしれない。それがたとえ、別の宇宙の存在であっても。

しんどい時はそう思って、夜を越えるのもありかもしれない。

熱中するもの:感想『グラン・ブルー』

グラン・ブルー

フランス、イタリア 1988

 

前回、軽い感想ブログを続けようと思ったのに、最初から熱を入れて書きすぎてしまった。

私は何かを始めるときいつも、最初に気負ってフルパワーを出し、その結果続かない。

何かに熱中するということはあるが、長く続いたことは少ない。

そういう楽しみ方もいいではないか、と思えればいいのだが、「何かを続けたい」という気持ちはあり、そんなものがどこかにあるのなら、探してみたい。

 

監督はリュック・ベッソン。『TAXi』や『レオン』がよく知られている。

上記の作品は高校生くらいの時に見た。『TAXi』のテンポとアクションと馬鹿馬鹿しさも、『レオン』の愛しく切なく苦しい人間の物語も、とても秀逸で、その世界に引き込まれた記憶がある。

ニキータ』や『フィフス・エレメント』も見た。そう言えば、この監督の作品で、ゲイリー・オールドマンを知り、ライトなファンになった。

 

グラン・ブルー』は、タイトルやオープニングから想像していた話とかなり違った。

海最高!みたいな話だと何となく思って見ていたら、とんでもない重さの、海の底のような暗い話が待っていた。

 

熱中するということ。他のものを犠牲にしてでも、譲れない生き方のようなもの。

ある意味では呪縛、囚われているということでもあり、同時に、当人にとってはそうしなければ生きている意味がないほどのこと。

皮肉なことに、そのようなものを持つ人ほど、類稀なる才能を持っていたり、鬼気迫るような傑作を作り上げたりすることも多いように思う。

 

それを見た私は、自分がそうでなくて良かったのか、そうだったら良かったのか、それすらわからない。

一つ確かにこの作品から受け取ったこととしては、自分がそうではないと思うのなら、そうなる必要はない、ということか。

熱中するものがあればそれでいい。なければそれでいい。

それによって非喜劇が起こることもあるかもしれないが、そんなのは人それぞれである。

 

そんなことを考えていたら、また熱を入れて書きすぎた。

ジョージアって:感想『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』

ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』

2021年 ドイツ・ジョージア

 

ジョージアのクタイシという町、そこに生きる人々、子どもたち、犬たち、そして自然。

映画を撮るということ、物語を作るということ、芸術であるということ。

混迷を極める現代社会にあって、映画は、芸術は、どうあるべきか、どこへ行くのか、という監督の自問自答が見えたような気がした。

 

タイトルで検索すると「ロマンス」とか「ラブストーリー」という言葉が多く出てくるが、私はこれを恋愛映画とは言いたくない。

確かにラブストーリーではあるのかもしれないが、主題は別のところにあると思った。

 

原題「Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt?/What Do We See When We Look at the Sky?」は「私たちが空を見上げるとき、何が見えるか?」(第22回東京フィルメックスでは「見上げた空に何が見える?」という邦題で上映されたという)であり、うーん邦題……と、いつものことながらどうしても思ってしまった。

邦題をつける人や、日本で恋愛映画として宣伝することそのものが悪いのではなく、そうせざるを得ないこの社会の問題だ。

 

ある土地があり、人々の営みがあり、自然があって、その世界でもしかしたら魔術的なことが起こる。それでも生活は続く。

それを映画にするということと、同時にそれを問うこと。

 

とても美しく、優しい映画だった。

 

それと、この映画を見てからハチャプリが食べたくなり、朝食に目玉焼きを乗せたパンをよく食べるようになった。

目玉焼きパンは、ハチャプリでなくラピュタパンだ。美味なので良し。

 

ところで、ジョージアではジョージアのことを「サカルトヴェロ」というらしい。

グルジアでもジョージアでもない、というか、サカルトヴェロが、ジョージアとかグルジアと呼ばれている。

固有名詞を言語によって変えてしまうのが、本当に腑に落ちない。 

 

↓監督インタビュー記事

ginzamag.com

 

要は、奇跡をどう定義するかなんだ。見方を変えれば、周りで起きていることはすべて奇跡と言えるかもしれない。

 

とても素敵。